品モノをバッチリ焼いた時に発揮できる最大のポテンシャルは焼く前に決まってます。
焼成がどんなにうまくいったからってよりよくなるなんてことは実はない。満点以上は出ません。
もし今回の焼成は上手くいった!いつものよりずっといいモノが焼けた!ってんなら普段がもっとよくできるはずのところ上手く焼成できてなかっただけか、今回は釉掛けや成形がいつもよりよかった、もしかしたら土の調整や買ったものならロットがうまくあってたのかもよ。
俺も何度もやっちゃってますが、どんなにバッチシの焼成でも犬のウンコみたいな出来のものは焼いてもウンコです。おいしいかりんとうにはなりません。よく似てるけどね。うー、つらい。
その辺の十人並がアプリ通したら少女時代になって出てくるスマホの写真とはそういう意味で違います(謎のたとえ)。しくじるとETみたいになっちゃうからそこは一緒だけど(あれって本人納得してるんですか?)
その焼成体の実力=最大の出来栄え可能性100%からどれだけ落とさずに焼き上げられるのか、という作業であるので、本質的に守備的。
技術構成点とか体操のDスコアみたいなもんで出せる最高点の頭が窯詰の時点ですでに決まってる。Eスコアや出来栄えでの加点みたいなものは「焼成」自体にはありません。どんなに最高の焼きでも腕の無い俺には腕の無いなりに作ったもんのせいぜいの最高点しか出ない。うー、つらい。
焼成前までの工程、特に成形や釉掛けはほとんどの場合、いつもよりもっとよく、もっとよくという可能性と希望が無限にあって可能性は青天井。そして、こっちの方が楽(タノシイしラク)
趣味の方が成形にかける比重が高いのは、だから正しい、というかよくわかります。単に手遊び的で面白いってだけじゃなくて、加点法の存在する常に上向きの未来がある失敗をやり直せる段階だからってのにどっかで気づいてるのかも。焼成を怖がってやりたがらない方が多いと聞きますが、それですよね。はっきり減点法の世界になっちゃうんだもんなあ。
まあ、とはいえ、一般的には成形に凝るっぽいイメージ(もしくは薪の炉なんかの場合は焼きのイメージ?)だけど一番大事なキモは自分は釉掛け(「釉薬」じゃなくて「釉掛け」)だと感じています。気分悪い個体は釉掛けするまでに残ってないしね。体調も気分も良くないと釉掛けするのこわいです。無釉ってのも、成形の仕上げがすべてって意味で圧倒的に逃げ場がなく逆に怖いんですが(笑
囲碁に例えれば釉掛けが済めばあとはヨセ。最大の手順が存在して、その通り間違えなければ自分の勝になります(対局相手もいないことだし)。焼成は間違えなければいいとはいえ、それはむっずかしいねえ~。100点なんて取ったことねえし。
でも焼成は楽しい、俺は楽しい。電気炉なのに楽しい。ポイントはいくつかあると思うんですよね。
1、火、高熱そのものがなんだか無性にうれしい。人間ですから!
2、普通は最終工程で、とにかくものが完成するんだからうれしい。(上絵する人はもうひと頑張りファイト!)
3、厚い炉壁に閉ざされたブラックボックスの中で、火のエレメントが物質を幻妙に変化せしむことに対するトンチキなシャーマニズム的(魔術的?錬金術的?)コーフンと畏怖。(人によってはスピリチュアルな、とか科学では解明できない的な方向のやばいやつ。聞いたことないけど陶道とか言っちゃいそうな奴はこれか?ロクロが止まって見えるのか?)
4、100点満点で上がってくる、もしかすると今までないぐらいいい出来かも、という毎回毎回頭から振り払うことの絶対不可能な妄想(と、そのあとほぼほぼ訪れるガッカリを含めるマゾヒスティックな場合もあり。俺)
5、登り窯とか教室とかだとみんなで焚くからパーティーっぽくて楽しい、恋も芽生えちゃったりして(実話)、なんてこともあるみたいじゃないの?悪かったなボッチで。
といった感じ(ほんとかわからんけど)で焼成の「作業」そのもの、動物的に指が楽しいって感じじゃないんですよね。妄想が楽しい。だから作業工程が本質的に持っている冷たい苛烈さを忘れちゃう。。これは「妄想は見聞や知識にすら優先する」という「俺の第三法則」に適合しています(この謎の法則は今作った)
焼成工程の他の工程との最大の違いは「後戻り不可能な不可逆変化を起こす」という点です。本焼きする前ならやり直しや元に戻すことができる。でも例え素焼きでも焼成しちゃったらもう無理。焼いてしまったものは永遠にヤキモノ。怖い。再原料化したセルベンだって元の土じゃない、ヤキモノのなれのはてです。証拠隠滅?には成功してるかもしれないけど(笑
不可逆変化を「起こさせる」こと、その作業は減点法でしかないこと。これが焼成コワい=たのしいの本質だと思います。
非焼成のもの、例えば日干し煉瓦もセラミックです。ファインにも「焼かない」ものは結構あります。「陶」という時に火で焼くっていう意味があるのかどうかは別にして、焼かなくてもセラミック製造、作陶、もっと言っちゃえば「陶芸」たりえます。
でも焼成工程を経ていない日干し煉瓦はヤキモノとはいはないのでは?
別に焼くから偉いとか日干し煉瓦を下に見てるって意味じゃないですよ。違う難しさやノウハウ、テクが満載のはず。
しかも焼かないことによって再利用からの再生産ができます。そういう意味では決定的に優れた部分があるわけで。
焼いてしまうとエネルギーや資源の循環の構造からはみ出ます。ほぼほぼ再生不可能。使い道の乏しい人造石を生み出すだけになります。焼成にはその部分の責任も実はあったりするのかもよ。コワい。ロハスとかスローなライフとか言ってるやつらは粘土細工までの陶芸はしてもいいですが焼成に手を出すのはそこん所よく考えてネ!熱も大量に無駄に発生させますし。(脅してどうする!!)
話を自分の現実に戻しますが、
実は、作ったものの本当の満点なんてわからないんですよね。これが大事。ヨセの完璧な手順なんかよっぽどの小ヨセでもなかなか見つけられないのと一緒です。
俺が満点だと思ってたもんが実は満点じゃなくてまだもっとよくしてやれるんだ!ってことがわかる、俺の釉薬もっとポテンシャル高かった!こんな表情も出せるんだ!みたいな。ファインでも同じことはあります。
これが焼成の面白さと考えなきゃいけなさの元かな?と思いますね~。
ファインメインで電気炉オンリーなもんですから窯詰まで無事に済めばスイッチぽんで一丁上がり!になりがちでもあるんですが、そういうことは常に頭に入れ直してます。
焼成パターンをあるていど決めて、その焼成で少しでも良いモノにする為、土や釉薬、成形を突き詰める、だけではなくて、モノの方に合わせて焼成を探っていく(性質上ファインではこっちも非常に多い)ってのもかなり「ヤキモノ」的面白さの一つの源泉なんじゃないかなと思います。
1250℃、1300℃、ってだけじゃなくて、窯の性能の範囲内であれば、いろんな温度や焼成パターンが「発見」されるのを待ってるような気がしますね。俺は1150℃でこんな珍しい温度カーブで作ってるぜ!なんてあまり聞きませんから、そんな所には新たな地平が開けるのかも?
粘土だって字義通りの無尽蔵ではないわけで、遠いだろうけど将来、採掘可能な範囲では粘土鉱物の枯渇が起こりそんなホイホイ手に入らないディストピアが来る可能性もなくはないとも言えなくはない。
そんな時でも今と同じような可塑性耐火粘土と決まった焼成パターンに依存しないヤキモノがつくれるかどうかってのはココに可能性がある。
まあそんな恐ろしくて楽しい、楽しいが超恐ろしい焼成ですが、電気炉だと案外「偶然性を最大限排除しながら、張りつく必要すらなく」こなせます。 特に俺が使ってるような1バッチの小さい電気炉はお手軽にそれを試せるのがいいところですしね~。
「そんなこと言ってもうちの教室は共同で焼成パターン決まってるんだよなあ~」なあなた!
いい電気炉ありますよ!
次回は、こないだ資料をいただいたある電気炉を宣伝したいと思います(ウソ
焼成についてうっかり考えてしまった回でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿