2020年6月16日火曜日

吉田崇昭さんの素数文がいかに恐ろしいかを長々語る

 
 個人的にちょっとしたきっかけがあったので、無駄話をば…
 以下は個人の作家の創作活動について、現物を手に取ったこともないくせに、ネット上の写真を見たこっきりで「俺が勝手にしゃべってるだけ」です。何か不快、不都合や事実誤認やオカシな何か、が文中にあったとすれば、あたりまえですけどそれは全部俺の責任です。御本人にももちろん作品にも無関係ですのでヨロシク。



 ヤキモノ屋に限らず、モノ作る人間にとって文様(とりあえず模様といってもいい)というものとの対峙からは逃れえませんよね。
 俺は無地だ!なんも描かねえし立体的加飾もしない!
 私なんてシンプルなんとかモダン!(筆者注:笑)

 なーんて人は、特になんもないように見える模様という選択をしてるわけです。ジョン・ケージなんか「音が出ないという音楽」なんつうクッソヘリクツを捏ねました。すげえ。
 イブ・クラインはただの青一面。

 これは芸術にとどまらず、
 禅や哲学系だと「無はすなわち有」だったり、
 「動いている矢は止まっている」といった運動法則(違います)
 真に受けても役に立たないということで役立つコンサルタントやマーケティング屋、
 アベ・シンゾーに至っては、まだ各家庭に行き渡りもしない実存無きマスクが、流通を回復させたとやらで、ほらお店にマスク並んだでしょ?マジか?社会・経済においておや!
 真なるは逆説なり 

 アレ?なんの話だっけ?
 

 人が人工的に構築したなにかに狙って模様を付けるってのを文様と仮に定義します。
 そうなると、カイラギや、縮緬ジワ、ロクロ目や手跡、削り跡、なんかも狙っちまった以上文様っちゃ文様。

 まあここではそういう広義の話は置いておいて、作ったもんになんかルールのある形で模様を描いたり彫ったりしたよ!ってのを文様としておきますね。バカ話が際限なくなっちゃうんで。


 そんな文様のうち、俺のヤキモノ屋人生、心胆をもっとも寒からしめたのが素数文です。俺の心胆を寒からしめたところで何がどうだってのは無視。
写真は勝手にインスタから借用しました。

 素数文、ってのは福岡の陶芸家、吉田崇昭さんの持つ最恐の必殺技。
 吉田さんは、みんな大好きイノウエ先生の動画でも登場してオジサン二人でイチャイチャしてました。動画も必見なので是非探してご覧くださいね。

 御本人のサイトはこちら。
 吉田崇昭 喜器窯
  インスタグラム

 

 ご自身がどう思ってるかは別として、俺が考えるにこれは史上最高レベルの必殺技、オリジナルホールドです。史上最高とか簡単に言っちゃってますがマジです。これは本当に困る!!(褒めてます)
 俺が知ってるうちで、なんつうマッスの狭い話かと思えばさにあらんのですよ。

 面識もなく、作品現物も拝見してないんですがこの素数文のヤバさはずっと語りたくてしょうがなかったんですよね~。このHPでも過去にコメントしていただいたり、インスタでもたまにやり取りしていただいたりしたんですが、ご本人ナイスガイなので怒られないと思って行くよ~
 吉田さん。勝手にごめんなさい。
 問題あったら記事も写真も消しますのでおっしゃってください。
 
 追記:快く許可いただきました!!ありがとうございます!!


見てくれよ、この雄弁な模様を!!
真ん中が23ってのは意味があるんでしょうか?気になる!
追記:23が好きなんだそうです。
誕生日が23日、マイケルジョーダンの背番号だし、とのこと。


 ここではデザイン、文様としての見かけの部分、意味について語ります。磁器だ、とか染付だ、とか言った部分、製品そのものや製作工程上の特徴については語れません。さっきも言ったように、そもそもまだ現物すら拝見してないんですよ。これ欲しいよなあ~。

 
 ヤキモノの型式?としては、
 磁器の染付、という伝統あるストロングスタイルで、形状も機能的で丈夫な珍奇さを狙ってない正攻法ですよね。材料的には釉も呉須も素地も澄み切ってない、古式感、庶民用感のある色味のちょっとくすんで淡いように見受けられますよね。白も青もキンキンのお貴族仕様じゃないタイプ。今はかえって少数派なのかな?(この辺動画と写真みただけで勝手に言ってますからね!勝手に)

 で、肝心の文様
 文字(漢字でもその他ABCでも仮名でも)を模様にするのは、普通にあります
 紋、模様をランダムに、あるいはランダム風にコンポジションする。これも普通
 数字を使う 多分珍しいけど無い訳がない

 そして、言葉や字、存在として素数なんてものはみんな知ってるもので、素数と聞くとコーフンする、なんて人はごまんといます。

 つまり、普通にあるものを使っただけなんですが、これが考えれば考えるほど、とんでもないことになっています。

 文様というものは、きれいだね!以上の意味があるものとないものがあります。良し悪しではないですよ。
 言い方が悪いかな?抽象と具象というと言葉のカロリーが高すぎる気もするけどそういうこと。

 線や面、色、などを幾何学的に、あるいはルールは無くとも割り付けただけのものは、アブストラクト、抽象的な文様。意味は無いです。意味があったらに抽象にはならねえからな。直線だったり三角形だったりな時点で抽象じゃない気もするけどそこはボンヤリさせといてね。
 そこから何かを感じるやいなやは(実は作家の思惑が仮にあったとしても)個人の勝手に属します。多分。

 対して、桜の華とか、動物、風景などが書いてあれば、読み取ったり感じ取ったりする質や量は個人の勝手になるかもしれませんが、架空のものだとしても具体的に意味や定義みたいなものが存在しちゃいます。桜は桜だし、カンフー少年はカンフー少年ですよ。で、もっと言えば物語が存在します。曖昧な言葉使うのもらしくないんだけどそういうこと。

 まあもちろん中間もあって、伝統的幾何学様式にはわかりやすいかどうかはともかく、麻の葉、立涌、青海波、等々そもそも何かを見立てた(とされる?後付かもしれないけどな~)みたいなもんが多分洋の東西を問わずにたくさん。
 麻の葉なんて、赤ちゃん産まれたらおくるみこれですからね。丈夫にすくすく育ってね~なんて。そういう意味や物語を知らずに麻の葉を使うデザイナーはいないはず。でもまあとりあえず幾何学連続模様です。


 で、描かれてるのが数字だとどうなるか。
 数列だったら意味がある、もしくは意味を読み取ろうとしちゃう。4649の類かな?とか、一日の自殺者数だとか、このお碗って何個目なのかな?とか、意味=物語があるんじゃないかって感じる時点で意味=物語が存在しちゃうよね~。
 公式や数式だったらハッキリと意味を持ちます。難しくて知らないようなのでも。


 数字が単独でばらけて配置されてれば、数の大小、という意味があるもののそれだけなら限りなく意味がないと言えます。もちろん文字なのでその文字そのもののデザインや描かれたサイズに何か印象はあるけど物語とまでは存在しない。この辺、数学者なら、とか、7に死ぬほど愛着をだいてるとか、人にもよるでしょうが。

 それが素数となると我々一般の数学ムズイ、理系キライ人種にすら俄然意味を持ってくるのがミソ。それこそ人によってはその物語無限大ですよ。漢数字なのもキモで、地域性や文化的アイデンティティが立ち上がるし、非漢字圏の人でも数字と聞かされればすぐ意味が分かる。文化的属性にかかわらず、世界のだれもが素数に対する感覚、認識、定義すら共通のはずです。数というのは共通言語なので。

 無限の物語性を持つのに限りないほど無意味にも見える、誰が見ても何が描かれてるのかよくわかり、かつランダムでアブストラクトな模様にも見えるってのが心の底からすげえ。(何言ってるか自分でもわかってませんが)
この辺の抽象具象に関しては言葉のあやで、美術的にとか言葉の定義や語釈がどうかってのはあんまり気にしないでね。  
 と、ここまでいかにこの文様が面白いか記したつもりですが、光あれば影アリ。同時に『吉田崇昭の素数文』がどれほど世の中を最悪のディストピア、真っ暗にするか、ということも記さねばなりますまい。いいですか、そろそろ例によって話が無理やり飛躍しますからね。真に受けないでくださいよ!いや、人によっては真に受けろ


 多分ですよ、素数をコンポジして模様にする、ということ自体、世界のクッソ長い数学とヤキモノの歴史上なかったわけはないんですよ。
 青花に字や詩を死ぬほど書きまくってきた中国ではとくに。素数なんてのも古代ギリシャ以前から世界中の数理にこだわりあるオジサンが気付いて打ち震えてたに違いないでしょ?でも確かに手元の図鑑いくつか見ても素数文なんてないっすね。その辺でも見たことない。
 (これは、たまたま伝世品がないだけとか、田舎窯の田舎品だったから埋もれたとか、そんな偶然の理由じゃない恐ろしい何かがあるに違いないんですよ。このくだりの続きは有料です。うそ)

 そういや見たことねえなあ、やったらオリジナルじゃね?と発見したのかどうか、とにかく素数大好き吉田さんが自分の器に書き付けてバシバシ作りました。ここまではまあよしとしましょう。
 追記:素数文誕生のコマゴマした秘話を教えていただきましたが、あんまりにも面白い上にもしかするとどっかに被害者が出るので俺からはナイショにさせていただきます。とりあえず、素数は好き、俺はヤキモノ屋、だったら文様にする、という流れに関しては間違いないです。

 問題は吉田さんがれっきとした実績ある陶芸家だって所です。あっちこっちで個展したり卸したりして、もう誰が見ても『吉田崇昭の素数文』になっちゃいました。だってほかにやってねえんだもん。歴史的に細々とはいえたまに見るよ、なんてこともないみたいだし。
 趣味オジサンが教室で作ってニンマリ!なんてのとはわけが違わあ。
 
 もうプロのヤキモノ屋にとって素数を散らすという文様は少なくともカネとって商売で作れるようなもんじゃなくなっちゃったんですよ。
 まあコピーだのパクリだのってのは突き詰めれば似てる似てないって話なわけですけど、素数には似てるもへったくれもないんですよね。素数は素数。だってそもそも定義のある概念なんだもん。
 
 この辺、有名な誰々の作った形に似てるとかそういう話じゃないです。俺なんかは所詮器なんてものは特に形状に関しては機能的な制約から結果的に収斂したにしろ、丸パクしたにしろ、どうしたって似ると思います。集合知ですから。特に機能性を重視した種類の実用品はコマゴマした部分除けばそりゃ似ますよ。

 ルーシーリーがはびこってるとか鼻でわらう人もいますけど、あの形がだめだったら世界は相当狭いぜよ。あの形が本当にルーシーの「発明」だとすれば、それはルーシーリーが偉すぎる!古代の○○土器や桃山陶、李朝とかといった集合的存在にたった一人で並んじまったんだからね。そのアコガレが自分の器にどうしてもにじみ出てきちゃう、なんなら見た目丸パクだとしても俺には人のこと言えないし、一概に非難できないです。


 とにかく整理すると、桜の花びらは誰が描いてもコピーもへったくれもほぼほぼないのに(まあ似せ方の程度はあるけど)、なぜかもっともっと普遍的しかも概念的存在であるはずの素数が、核融合的遷移の結果、個人のオリジナルデザインになっちゃったんです。

 動植物ならちょっと書き方違ってりゃあいくらでもやれるのに対して、この素数、技法もへったくれもなく、鉄絵で描こうが釘でひっかこうが、釉彩しようが、アラビア数字で描こうがローマ数字で描こうが、素数であることの意味合いがデカすぎて、まあそういう謗りは免れますまい。

 福とか、豊とか書いてある皿だの碗だの結構みかけるんですが、福田豊って名前でずっと生きてる俺でも「その字、俺の字だから」とか言えないわけです。
 だのに数字に制限が付いた。

 いうなれば素数の個人所有。
 いいですか、概念を個人で独占してるんですよ!歴史上これほどまでに強大で戦慄すべき独裁権力があったんですかね?
その資産価値たるや天文学的を通り越して那由多とか恒河沙みたいな難しい漢字のアホ小学生しか知らないあれレベル。まさに浜の真砂の一粒のこらず!

 しかもですよ、良く想像してください。別に素数じゃなかった時のことを!真に恐ろしいのはココから。
 単に数字がいくつか書いてあったら?
 等差数列でもフィボナッチ数列でも、本当に無秩序なバラマキですら「あ、吉田さんぽーい」とか言われちゃうに決まってます。まあこのくそ文章を読んでしまった以上、あなたももうそういうことなんだよ!

しかも四って!素数じゃねえじゃん!
くそう…隙なしか…
追記:40台の素数の10の位が見えてるんだそうです。
 
 話をワイドスクリーンバロック的に広げると、素数(数でもいい)という概念は、単なる数理ですから全宇宙にあまねく等しく存在しているはずです(少なくとも同じような物理系の中ではきっと)、『太陽を盗んだ男』(大傑作:主演はジュリー)といっても所詮被害は太陽系レベル程度。素数(数でもいい)を個人所有した以上、被害を受けるのは全宇宙です。全宇宙!(被害ってなんだよ)
 PS:そんなことまで考えてないです。とのこと(笑

 『宇宙を盗んだ男』この二つ名を授けます。
 今日の結論としては、 素数文、まじヤバい!


 
 このネタ、現物を見てご本人に確認してから、と思ってたんですが見切り発車しちゃいました。すみません。追記:繰り返しになりますが、ご快諾いただきました。ありがとうございます。

 ヤキモノ初級者の友人から「お前(俺ね)の作ったもんなんかつまんねえからどうでもいいよ。なんか有名なのコピーしてみてくれ!写真見せたら作れる?」みたいなひどいメールを受け取っちゃいましてね。コピーについて考えてました。
 コピーってのは仁義道徳の部分はさておいて、技術向上したり新しい手筋をおぼえたり、考えに広がりが出たり、とても楽しいんですよね。ものの見方も深くなると思います。

 
 土や釉薬はもう真似るも何もどうしようもない。完コピこそってのももちろん分かりますが、まあ普通はコピーを通じて自分が出てくるのを楽しむもんですから手持ちのでいいんじゃない?

 となると形。マネるのは練習次第だし、だからと言って作り方の手順なんてもんは自分でうっかり見つけるからこそ面白いわけ。あーそこはそう作ってるのか!って知るのも本当に目が開いて楽しいですけど、いろいろ考えながらやるうちに結果的に別物だけど新しいの出来た!なんて横道にそれて進むのも大好きです(根気がないので俺は大体こうなる)
 じゃあ、作るところは記事にすることねえなと。 

 じゃあ、文様は?となれば、これこそコピーのコピーたる核心ではあるまいか?(とりあえず良し悪しは不問)と思い至って、趣旨はだいぶ変わりましたが記事にしてみました。
 もしコピーして遊ぶシリーズをやるのなら、犯罪性?が低いようにコピー元から意味と技法をスライドさせて結果的にコピーには見えない、みたいなものを作るのは楽しいのかもな。と思いました。その点もう数字つかうのは無理!みたいな(笑
 丸コピもそれはそれでいろいろすごいよね?と思ってる自分もいますが…誰にとってどこまでがコピーとか難しいし面白い。
 何をどこまでズラすと『吉田崇昭の素数文』の影響を感じなくなるか、って実験するのも楽しいかも。
 

 
 


今右衛門のカンフー少年



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